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明日の風

明日の風

介護の記憶

(1)
バァちゃんがうちへ来たのは六月だった。
あれから八年になる。

「先は永くないから」とか
「今年持つかどうか」とか言われたけど、気が付いたら八年目。
振り返ってみたら結構長い山道を登ってきたような気がする。
頂上まで後どれくらいあるか判らないが。

休み休み登ってきたのでまだもう少し登れそう。

バァちゃんを背負って登っている時、背中で暴れていたので、何度放り出しそうになったことか。
ほんとの山道なら置いて帰りたいほどだった。

バァちゃんと私は相性が悪くて、
子供の時は私が叱られてばかりで、
思春期になってからは私が文句を言ってばかりだった。
言われっぱなしで黙っているようなバァちゃんじゃなかったけどね。

あんなにうるさいバァちゃんがすんなり上京を許してくれたのも、
一緒に居ればケンカになるからかもしれない。
「あんたとはたまに会うほうがいいのよ」と言われた事がある。

褒めてもらった事も慰めてもらった記憶もない。
でも私が初めて帰省して又上京する時、バァちゃんが泣いたのを車窓からチラリと見た。
ちょっとびっくりしたが、親なんだと嬉しくもあった。
あんな性格だからあんな愛し方しかできない‥

まだら呆けになってうちへ連れて来られて、どんな気持ちだっただろう。
呆けたから何も判らないのではなくて、判る部分も結構あるのだ。
バァちゃんは昔から勘がいい。
呆けていても私の表情を読むのだ。
自分はこの家には居られない、帰ると言って聞かなかった。

あの年の六月は悲惨だった。

(2)
八年前の六月。
嵐みたいな風が吹き荒れる朝だった。
早朝の電話で目が覚めた。
こんな時間の電話に悪い予感がした。

興奮したような兄の声だった。
一方的に今から母を連れて行くと言う。
あと二・三時間で着く。もう限界だ。今度はお前の番だ。

驚きはしたが、いよいよ来たかという気もした。
母がおかしいと言う事はわかっていた。
兄がどこまで面倒見れるかと言う心配はいつもしていた。
でも私は気が付かない振りをしていた。

兄が心配かけるから母が不安になるんだとか
母の事だから大げさにして兄に心配させているんだとか

主人も娘たちも出かけた九時過ぎに兄と母が来た。
母は以前の母ではなかった。
毛染めをしないとこんなに真っ白だったのかという頭には、何故か小麦粉を水に溶かしたようなものがべったりとついていた。
威勢の良かった兄は私に会うと卑屈な笑みを浮かべた。
「兄ちゃん、糖尿が悪くなってな。入院したいんだ。頼むよ」

そんな兄と別人のような母を見て嫌だとは言えなかった。
今度ハ私ノ番ダ。

兄は母と身の回りの物が入ったボストンバックを一つ置いて、逃げるように帰って行った。
私はその日パート先に「母が急病で実家へ帰るので一週間休みを下さい」と連絡を入れた。
多分もう仕事は続けられないと判っていたけど。

(3)
置いてけぼりにされた母は最初のうちはニコニコしていた。
遊びに来たつもりでいたらしい。
兄にそう言われてうちへ来たのだろう。

八年前の母はもうすぐ73歳になる頃だった。
伝い歩きができ、今よりは体力があった。
まだら呆け状態でしっかりしている時もあれば、支離滅裂の時もある。
元々、喜怒哀楽が激しくて、不穏の時は「怒」と「哀」がひどかった。

兄がもう迎えには来ないと知った時、母は怒り狂った。
警察を呼べだの市長を呼べだの。
あの頃の記憶がもう断片的にしか残っていない。
ただ母が家から出て行かないように、一日中見張っていた。

しばらくして兄から何個かのダンボールが届いた。
母の衣類ばかりだ。
こんなにたくさん‥
入院している間だけじゃないの ?
母は着道楽だったので洋服はたくさん持っていたが、
どれも薄汚れていて、尿の臭いが染み付いていた。

主人には取り合えず「兄の糖尿が悪化したので回復するまでうちに居る」と言った。
主人は後になって、あの時の母の状態を見て男手一人の介護は無理だと思ったと言ったけど。

ため息をつく余裕もない日々が始まった。
荒れる母をなだめ、言って聞かせ、叱り、母に付きっ切りだった。
主人も娘たちも母の迫力と私の切羽詰った雰囲気に戸惑っていた。

最初のうちは一緒にご飯を食べようと思っても、家族が居ると箸を取らない。
黙って睨み付ける。
そして「私をここに閉じ込めて外に出してくれない。
警察に行きたいから呼んでくれ」と言う。

部屋に食事を運んでいくと、
「帰してくれるまでは食べない」と言ったが、
置いて部屋を出ると30分後にはきれいに完食していた。
そんなところが母らしい。

暑い夏が始まった。

(4)
母がうちへ来た日から私は仕事を休んだ。
一週間後に辞表を出して退職した。
パートとは言え、辞める時は一ヶ月前に申し出る事になっているのだが、「介護をする」と言うとすんなりと了解してもらえた。
それほど介護は待ったなしと言う事か。
結構時給も良くて、家から近くて気楽な職場だったのに。

家の中がピリピリしていて、娘たちは私に気を使うようになった。
買い物も行けなくて、高校生だった次女が学校帰りにスーパーへ寄ってくれた。
家の中が暗くなる‥

それで猫を飼うことにした。
我が家は私以外猫好きで、娘たちは猫を飼いたがっていたが、ペット禁止のマンションと言う事で諦めていた。
それでも内緒で飼う人が増えたので、一代限りと言う規約改正ができ、ペット税を払えば飼える事になっていた。
母も家で猫を飼っていたし、気が紛れるかもしれない。

気が紛れたのは私の方だった。
母が荒れる度に、私の中で嵐が吹き荒れる。
それをなだめてくれたのは猫だった。
私がキレて母を怒ると、猫が怯えたように遠巻きにして私を見る。
母と二人きりの時、私を正気にさせてくれたのは小さな子猫だった。

これからどうなるかわからない状態だった。
兄は母に依存してきた性格なので、母をこのまま見捨てるとは思えなかった。
半年、いや一年くらい面倒見れば、兄も寂しくなって迎えに来るだろう。
それまでの我慢だ。(甘かったですねー)

介護保険制度が始まる頃だった。
介護の「か」の字も知らなかったので、通信教育でヘルパーの講座を受けた。
教材を読み、課題ごとにレポートを提出するのだが、週一日朝から夕方までスクーリングと言うか実習があった。
母を一人にしておけない時期だったので、土曜日にして家族で交代で見てもらった。
家族も否応なく協力してくれた。
きっと文句を言うと私が潰れそうなのがミエミエだったのだろう。

暑い夏、母が家を出ないよう見張りながら、レポートを書き、子猫とオリンピックが唯一の楽しみだった。

(5)
母が来て一ヶ月の間に子猫を飼い、ヘルパーの通信教育を申し込んだ。
途方にくれた日々の中、子猫の仕草は笑いを誘った。
通信講座は勉強にもなり、目標にもなった。
ヘルパーになりたいと思ったわけではない。
ただ介護のことを知りたかった。
認知症(その頃は痴呆症と言っていたけど)の事とか、接し方とか、制度の事とか。

痴呆症の人には怒ってはいけないと書いてあったけど、頭では判っていても心は付いて行かなかった。
あの頃の母は伝い歩きでトイレに行けていたけど、一時間の間に何度も行っていた。
その度にまず一度水を流し、用を足してから又水を流す。
水道代が一気に上がり、検診員の人に事情を聞かれたくらいだった。
そのうちに伝い歩きでは間に合わなくなり、途中で粗相をしたり、這ってトイレに行くようになった。
我が母ながら夜中這ってトイレに行く姿は「貞子状態」でしたね。

そのうちトイレが判らなくなり、洗面所や玄関で用を足したり。
それが情けないのか怒ったり泣いたり。
今思えばもうあの時ポータブルトイレにするべきだった。
トイレが母にも私にもストレスになっていた。

母はとにかく怒っていた。
怒る相手は私しか居なかった。
たまに機嫌の良い時もあったが、数秒後には険しい顔になった。
そして「ここはどこ」から「家に帰して」「警察を呼べ」に続く。
いくら言っても理解してくれなかった。
認知症でも大人しいタイプとそうでないタイプがあるが、うちは怒るタイプだった。

怒る相手に優しく介護なんてできない。
私も叱ったり、逆ギレしたり、今思うと情けない介護だったと思う。
でもあの時はあれが精一杯。
自分で反省はしても人には言われたくない。(と開き直る)

泳げないのに荒海に放り込まれたような一年後、私はヘルパーの資格を取った。
娘の使っていたPCも使えるようになり、介護申請を考えるようになった。

一人で介護は無理だ。

(6)
介護サービスを受けるには介護申請をして認定を受けなければならない。
あの当時、介護保険制度ができたばかりで、私はもちろん市の窓口の人でさえも詳しい事は知らなかった。
「住民票を移していない」と言うと「それではここでのサービスは受けられない」と自信たっぷりに言う。
それで私は介護サービスを受けることを最初諦めた。

住民票を移す事は兄はサラサラ考えて居なかった。
兄は母の扶養家族だったのだ。
私自身も住民票を移すほど長く介護をするとは、その当時考えて居なかった。
それでも介護保険制度を知るにつけ、利用したかった。

住民票を移さなくてもこちらの介護サービスを受けられると言う事を、その頃始めたPCのネットで知った。
トンネルの中で僅かな光が見えたようだった。
でも市役所に電話しても「住民票を移さないと無理」と言う。
私は県にまで電話して食い下がった。
「現実にそういうケースがある」と。
たらい回しにされ、どこかに繋がれそこに出た電話の人が
やっと「できます」と言ってくれた。
最初からこの人に繋いでくれよ。まったく。

介護保険制度の仕組みを(ある程度)知り、
住民票を移さなくても介護サービスを受けられることを知り、私は少し元気になった。
今までがどん底だったのだ。
これから少しずつ浮き上がれる。

母はいつも不機嫌で元気だった。
まだら呆けで、足が悪くて耳も遠かったけど。
テレビの音も大きくしても聞こえないので、ヘッドフォンをして最大量で観ていた。
時代劇や皇室物が好きだったので、録画していつでも観れるようにしていた。
編み物も好きだったけど、昔のようには編めなくて不ぞろいな目でマフラーを編んでいた。
母一人を残して買い物に30分くらい出る時は、時代劇の録画を映して毛糸と編み棒を渡した。
マンションの鍵は中からは簡単に開くので、母が部屋から出れないようにつっかい棒をした。
それでも心配で、玄関に出る前に障害物を置く念の入りようだった。

母を家から出れないように閉じ込めて、TVや編み物ばかりさせておくわけには行かない。
ヘルパーさんやディサービスを利用したかった。
何より私が母から解放されたかった。

ハラワタ煮えくり返るくらいの兄だけど、ここは何とか協力してもらわねば。
あの頃はまだ兄にも母を思う気持ちがあって、毎月僅かなお金と母の好物が送られてきていた。

介護申請をして認定を受けるために兄が一年ぶりに母を迎えにやってきた。

(7)
兄は新車で迎えに来た。
どこからお金が出てるのよ。
それもワゴン車だし。
母と二人暮しなのに何考えてんの。
「交代で介護するからワゴンだったら寝たまま移動できるからな」と言っていたけど。

兄と一年ぶりに会った母がどうだったか、今は記憶にない。
印象に残らないくらいだから、その時は泣いたり怒ったりはしなかったのだろう。
実家まで車で、途中休みを入れて一日がかりだった。
ドライブ気分で機嫌の良かった母は、日が暮れて実家に近づくにつれて不穏になった。
そのうち大声で怒り出す。
あれほど帰りたがっていた家に帰るんだよと言っても異常なほどの大声でわめくのだ。

家について母の怒りはピークに達した。
怒りは兄に向けられている。
兄は何を言われてもエヘラエヘラ笑っている。
私がなだめても納まらないので、最後は私が母の口を塞いだくらいだった。
その夜は強烈で、私が母を抱いて寝た。
暴れないように、大声を出させないように。
私の家ではこんなに暴れた事はなかったのに。

兄はしばらく交代すると言ってくれたので、私は母を介護申請に連れて行った。
実家のある市役所は住民票を移さなくても介護サービスを受けることに問題はなかった。
母は七十過ぎまでこの町で暮らしていたのだ。
今までちゃんと税金納めてきたんだから、最後まで面倒みてくれなくちゃね。
兄妹で交代で母を看るので私の所でも介護サービスが受けられるようにしたいと言った。
たらい回し介護」と言うと言葉は悪いが、現実にそう言うケースは多いと思う。
その度に住民票を移していたら大変だ。

申請をして一週間以内に認定調査に来ると言う。
母も落ち着いてきたので私は申請が済むとこちらに戻る事にした。
兄は半年くらい面倒看ると言う。(実際は三ヶ月だったけど)

久々に母と離れて一人で新幹線に乗った。
大丈夫かなとか寂しいとか感じなかった。
ただただ肩の力が抜けて、故郷から離れるにつれて開放感が体中に広がった。

(8)
介護申請をしたのは八月だった。
すぐに認定調査があって要介護度4に認定された。
私的には2か3かなと思っていたけど、兄は5でなかった事に不満そうだった。
馬っ鹿じゃないの。
サービス限度額が高いと言うだけで一割は負担するんだよ。
単価はもちろん高くなるし。

それでも兄はしばらく交代してくれると言ったし、介護認定もされたし、交代で介護するんだから(いつもながら甘かったですねー)介護サービスは全国的にやっている所にしようと思った。
私はニ○イの通信講座でヘルパーの資格を取ったので、ケアマネもそこに頼んだ。
ニ○イなら実家のある町にもあるし、交代する時も連携が上手く行くかもとか
介護サービスを利用できるんだから、このまま母は戻ってこないかもとか
相変わらず甘いですねー

八月に交代して年内は戻ってこないと思っていたら、十一月に又兄から突然電話があって今から連れて行くという。
腰痛で面倒看れないんだって。
まったく。半年看てくれるんじゃなかったの。

以前と同じく母はヨレヨレの姿で兄に連れられてやってきた。
どうしても男手の世話は行き届かないのだろう。
兄が帰っても母は以前のように荒れることはなかった。
母なりに悟ったのだろう。
判らないなりに私の所に居た一年間も記憶にあり、どちらがマシか判ったのかも知れない。
それでも不穏の時はきつかった。
まだ体は元気だったからね。

ケアマネを決め、介護プランを立てた。
ベットも車椅子もレンタルで借り、ポーダルトイレも一割負担で買った。
今思えば必要のないサービスもあったが、その頃は言われるがまま。

介護サービスも利用していくにつれ、色々、色々あったけど今はシンプルに週一日のディサービスと月四日間のショートだけになっている。
訪問介護も断り、ベットと車椅子のレンタルだけ。
限度額の三分の一くらいだけどこれで十分。
だって兄はもう介護費用を払ってくれないし、全部私持ちだからね。

交代してくれるはずの兄は音沙汰なし。
それでも母の状態が低いレベルでも安定しているのがありがたい。
私のところへ来て入院騒ぎになったことは一度もない。
これからは判らないが。

母も私も落ち着いてきたのは三年経った頃からで、その後は時折母が不穏になったり、私がイライラしたりの繰り返し。
不思議な事に母が「寝る日」が多くなるにつれ頭がしっかりする時もあるような気がする。

何時の頃からか「介護が終わったら」という事を考えなくなった。
介護していてもできる事、楽しめる事を少しずつしている。
この七年間、大変だった気もするけどそんなに辛いと思ったこともなかった。
きっと私がいい加減で、母に対しても距離を置いていたからだろう。
母の心に寄り添って、母の身になっていたら母と一緒に泣いていたかもしれない。

寝たきりになった母は素直に私の言う事を聞いてくれるようになった。
体は素直に動かないが。
これから先は判らない。
判らないからこそ何とかやれそうなそんな気もしてくる。
(介護の記憶 終)    2007年6月記




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